商売を続けるということ

タイトルからなんとも偉そうなことを書いてしまった。
でも僕にはそんな大層なことを言える筋合いはない。

いまから3年前ほど前、僕は11年と半年続いたバーを閉めた。
もともと修行していたバーの2号店として開店し、その後成り行き的に譲渡され営業を続けていた。
2008年夏頃には好景気という名のビッグウェーブに乗った感があったが、すぐにリーマンショックとかいう不景気の引き潮にさらわれ、そして2011年の東日本大震災が押し寄せた。

自分でこうして書くと、世の景気や時流を言い訳にしているようだが、どう考えても自身の実力と努力の足りなさ。
結局、自転車操業から抜け出すことはできなかった。
それでも変わらず店を訪れてくれるコアなお客さんたちはいらしたので、閉店するという決断はやさしいものではなかったけれど、経営的に、そして自分の経済的に、そうせざるを得なかったのだ。


僕の父は、郷里盛岡で飲食店を経営している。
ピリ辛トマトスープのスパゲティを看板メニューとした店で、地元では「隠れたソウルフード」「わんこそば、冷麺、じゃじゃ麺に続く4大麺」と言って下さるかたもあり、息子の自分が言うのも何だがそれなりに愛されてきた店だと思う。

f:id:ksk0722:20200725020805j:plain

その店が、今月で開店40周年を迎えた。

僕の子どもの頃のおぼろげな記憶のひとつに、「父母姉と僕の家族4人が、赤い布地のソファーに座って、開店する店のロゴを選んでいる」というものがある。
それは、家族会議なんてものではない。
おそらくいくつか案があって、なんとなく子どもたちにも見せてああでもないこうでもないって言い合っただけのことだろう。でも、赤いソファーと、緑地に白抜きのロゴという色の対比が鮮明だったのか、なぜか頭のなかに残っている。
それがもう40年も前のことなのだ。

スパゲティと喫茶がメインの店なので、メニューにはあるがアルコールがたくさん出る店ではない。
しかし僕の父は、夜の営業活動と称し平日はほぼ毎晩のように飲みに行っていた。僕が小学生くらいの頃だと寝るのはだいたい10時くらい、その時間に父が帰ってくるのは稀だった。
それに僕の記憶が確かならば開店して数年は月に2回しか店休日がなかったはずだ。
毎日の仕事と夜の営業活動に疲れていたであろう父は、日曜日の午前なんてほとんど寝ていたように思う。
小さな僕がキャッチボールを始めた頃、最初に相手をしてくれたのは母だった。母も会社勤めをしていたし、当然家事や我々きょうだいの育児をしてくれてたから、父と同じように疲れていたはずなのだが
……。

父は、まさに個人商店の創業者の典型という感じで「おれがナンバーワン」という意識の持ち主。
自他共に認めるほど仕事の要領は抜群、どんな混雑時でも手際良くこなす。
硬軟おりまぜた客あしらいでお客さんたちの心を掴んで離さない。
僕も大人になって仕事をするようになってわかった。
僕の20数年の経験のなかで、師匠、親方、兄貴にあたるひとが2,3人いるが、皆それぞれに強い魅力を持ったひとたちだ。

自分自身の腕や才能、ひらめきや努力でのし上がってきたひとたちは、程度の差こそあれ強い自我を持っている。そういう自我や自尊心みたいなものがなければのし上がっていけないってこともあるだろうし、
逆にその過程のなかで形成されていったものでもあるだろう。

何にせよ、長く商売を続けているひとたちには、それだけ努力してきたひとであり、それ故に揺るぎない心をつちかってきたひとであるように思う。


父も年老いて昔よりは丸くなったようには思うけれど、いまでも「おれナンバーワン」の気概は失っていない。
だから、いま実質的に店を切り盛りする店長こと僕の弟と、ガチガチにぶつかり合ったりしているようだ。
「老いては子に従え」とことわざにあるが、裏を返せばそれだけ子に従わない、従順ならざる親がいるってことだろう。まあそりゃそうだよな……。


僕も四十代半ばに差しかかった。
元気にバリバリ仕事ができるのもせいぜいあと30年かそこら。
父は三十そこそこで店を開いて、40年もの歳月を重ねた。
さあ、これからおれはどうする?おれに何ができる?
酔った頭でそんなことを考えながら、また今夜も意識を失いつつある。